第二章 王位継承権 3 ―厨房―
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朝の四時に、統護は目が覚めていた。
窓越しから差し込む光は、まだ弱々しい。
枕元の小型目覚まし時計は沈黙したままだ。まだアリーシアに教えられていた起床時間には余裕がある。
元々、早起きの習慣なのだ。
早起きしても、のんびりと朝の一時を過ごせる家ではなかったが。
二度寝はしない。あてがわれた部屋の、見慣れない天井を統護はぼんやりと眺めていた。
就寝初日とはいえ、安っぽい板張り風の天井は、堂桜本家屋敷にある自室の天井よりも落ち着いた。
「……もともと『お兄様』なんて柄じゃないんだよな、俺」
順応する振りで自分を誤魔化してきた。
安月給サラリーマン家庭から、世界的大富豪の御曹司へ。
喧嘩にも使えない腕っ節と、手品に毛が生えた隠し芸持ちから、世界最強の超人へ。
そして――一人っ子から妹との二人兄妹へ。
変化が大き過ぎる。
目を瞑れば、日本人形のような大和撫子の、綺麗で上品なはにかみが思い浮かぶ。
「お兄ちゃんならともかく、まあ、兄貴って線もあるか」
けれど妹を名乗る美しい少女は『お兄様』と上品な声色で涼やかに呼ぶ。
最初は呼ばれる度にドキリとした。
単語には慣れた。単語というか、音には。
兄弟が欲しい、と願ったことは記憶にない。だから妹ができたらなんて夢想やシミュレーションはした経験がない。
正直、淡雪を『ただの女の子』として意識している自分を否定できなかった。
そもそも妹というモノが、どういったモノかも理解していない。
妹とは、あんな風に特別な好意を兄へと向ける存在なのか。
それとも淡雪が特別なのか。
「アイツにとって兄貴は既存であっても、俺にとって妹は未曾有で未知なんだよなぁ」
御曹司は受け入れるしかなかった。御曹司と呼ばれるのは、勘弁して欲しいが。
世界最強のチカラを得たことは、現状の立場ではむしろ救いであった。どう考えても、今回のミッションのみならず、これから荒事に巻き込まれそうだ。
けれど――妹は、受け入れるとか受け入れないとかいう次元の話ではないだろう。
「俺はちゃんとアイツの兄貴になれるのか?」
淡雪との約束を果たせないのは、もう分かっていた。
この世界での『堂桜統護という存在』は、すでに自分一人に集積されている。それを知るイベントがあった。だから淡雪の願いは『正確な意味では』もう永遠に叶わない。
流石に今は打ち明けられる心境ではない。
元の堂桜統護として代わりになればいいのか。
今の堂桜統護として代わりになればいいのか。
それとも……兄というラベルを放棄するしかないのか。
せめて血縁があるのならば無理にでも割り切れる。けれど血縁どころか、産まれてきた世界が異なる異世界の人間だ。いっそ血が繋がっていれば、母親の延長と解釈できるのに。
俺は――淡雪を……
「あ~~ッ! いま考えるのは、それじゃないだろ」
ぐしゃぐしゃと頭を掻きむしる。
統護は身悶えた。これではまるで、任務の為ではなく、淡雪から逃げ出してきたみたいだ。
事実、少し距離を置きたかったのだが、統護は素直に認められない。
「姫皇路さんを護らなきゃいけないのに」
統護は思考を切り替える。
姫皇路アリーシア。本当の名は――アリーシア・ファン・姫皇路。
出自は、ファン王国の現国王ファン・ファリアストロⅧ世の妾腹の姫君である。
母親であるニホン人はアリーシアを出産した時に亡くなっており、その存在自体が秘匿されている。ファリアストロⅧ世しか名を知らないという。アリーシアの姓である姫皇路も、実母から継いだ名ではないのだ。つまりアリーシア一代の唯一の姓であった。
その母親の願いで、アリーシアは出自を隠され、孤児としてファン王国の王位継承権とは無縁の生活を送っていた。
そんな彼女に『万が一』にも害が及ばないようにとの、保険として堂桜家次期当主であり天才魔術師であった統護が、影ながら護衛についていた。
護衛は保険である――はずだった。
(それが、俺がこの【イグニアス】世界に転生してから、激動した)
消えた【イグニアス】の統護と、元の世界の統護の存在が入れ替わった頃から、ファン王国の内乱が勃発したのだ。
元々燻っていた火種はあったのだろうが、一気に顕在化したのは、自分がこの世界に転生した事と、なにか関係や影響があるのか。
アリーシアとは元の世界では知り合いではなかった。
そもそもファン王国という国も、元の世界には存在していない。
元の世界では、ソビエト連邦は一九九一年十二月に崩壊している。【イグニアス】では若干名称が異なるが、ソヴィエルとして存在し続けている。ただ、元の世界のような社会主義共和国連邦とも若干毛色が違う。
つまるところ――此処はやはり異世界だった。
技術形態が異なるだけではなく政治形態や宗教・思想にも明白な差異はみられる。
アリーシア護衛についても、政治的な裏がある可能性を否定できない。
ひょっとしたら元の統護は承知していたのかもしれないが、同一人物だが異世界からの別人であるこの統護には、まったく分からない。
「――あんまり面倒くさい話は勘弁して欲しいんだがな」
そういった意味では、堂桜一族のパワーゲームから弾き出された現状はむしろ僥倖だ。
とにかく今は――アリーシアの身を護るだけだ。
シンプルにその役だけを全うすればいい。
元の統護にとっては堂桜財閥後継者となる為の課題であったのだろうが、今の統護にとってはこの異世界でも『堂桜統護として生きていく』為の、最初のハードルだ。
枕元の目覚まし時計を見ると、まだ四時半である。
喉の渇きを覚えた統護は、潔く起きて、厨房へと喉を潤しに向かった。
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…
古いけれども清潔な厨房には、先客がいた。
アリーシアだ。
彼女は制服の上に赤地のエプロンを着け、癖のある長い赤毛を頭巾で後ろにまとめていた。
楽しそうに厨房内を忙しなく動いている。
「どうしたの、こんなに早く」
目を丸くするアリーシアに、統護は喉が渇いたから水を飲みに来たと言った。
アリーシアは冷蔵庫を指さす。
「浄水器からのを冷やしたののでよければ。あと麦茶もあるわ」
「サンキュ」
「ふぅん。高級なミネラルウォーターじゃなくてもいいのね」
「偏見だよ」
確かに堂桜本邸で出される水は高級な品のようだ。しかし統護にはあまり関係ない。喉の乾きを癒やせれば充分である。
とはいっても、山籠もりの時に味わえる湧き水の旨さは、格別だと知ってはいるが。
コップに注いだ水道水を旨そうに一気飲みする統護に、アリーシアは複雑な表情になる。
統護はそんな彼女の様子に気が付かない。
「姫皇路さんはこんな時間から食事の準備をしているんだ」
「御飯もお味噌汁も焼き魚もタイマーで仕上がるようにしておいたけど、どうせだったら最後まで自分で仕上げようと思って。やっぱり味が違うから」
「そっか。楽しみだ」
「あ。でもあまり期待しないでよ。一流のプロの味には程遠いんだから」
「だからそういうのはあまり拘らない――っと」
統護は言葉を止めた。
アリーシアが自分で朝食を仕上げようとした本当に理由に気が付いたからだ。量を調整して新たに一人分を作り出さねばならない、という。
「俺、手伝うよ」
「却下。今朝だけ特別、だなんて調子狂うし。それともこれから毎朝手伝ってくれる?」
挑発するような目で睨みを効かされ、統護は大人しく引き下がった。
「よろしい。大人しく部屋に戻りなさい」
アリーシアが「うんうん」と頷く。
此処はきっと彼女の聖域だ――と、統護は納得した。
「時間、中途半端だから此処で暇を潰しているよ」
「はいはい。だったら邪魔にならないようにゲームでもしていなさい」
そう言われて、統護はスマートフォンを弄るふりをした。なにしろゲームは何一つとしてダウンロードされていない。
実際は、厨狭しと動き回るアリーシアを覗き見ていた。
料理とは、こんなにも女の子らしいのか。
手慣れた動きと、効率的な手際は一種の手品のようで、いくら眺めていても飽きなかった。
楽しそうで踊るようだ。
綺麗だな、と統護はつい見惚れていた。
「――なにジロジロと見ているのよ」
トリップから醒めた。半白眼のアリーシアがアップで迫っている。
いつの間にか、統護のスマートフォンを持っている手は、膝の上から動いていなかった。
腰に手を当てたアリーシアは怒り顔を演出していたが、明らかに照れている。
統護も彼女の顔が間近に迫り、頬を赤くした。
二人は慌てて、顔を離した。
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