第一章 何でも屋の少女、再び 10 ―勝敗―
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10
(ライトクロスを信じろ……か)
それが右拳の先に、みみ架の顎があったかどうかの答えだった。
オルタナティヴは複雑な眼差しで、里央に支えられているみみ架の背中をリング上から見送った。自分は事故的に失神KOを食らったが、こちらは相手をボロボロにしてしまった。道場内にある医療センターでは手に余る重傷だ。みみ架はこのまま病院に直行となる。心配なのは右拳だ。腫れが引いた後にレントゲン撮影して、それから緊急手術だろう。大事に至らない事を祈るだけだ。
強烈な目眩がした。
脳へのダメージが抜けきっていない状態だ。気を抜けば、そのまま倒れ込みそうである。
しかし、それは表に出さない。
無理にでも平然と振る舞う――のが、失神を晒した後の最低限のプライドであった。
リングに上がってきた弦斎が、オルタナティヴに声を掛ける。
「あまり気に病むでない。怪我も大した事ないじゃろうて。孫の身体は普通じゃないからの。産まれた時から、そう造り上げておる」
「互いにやり過ぎだったわ。反省している。でも……、収穫の多いスパーだった」
ありがとう、とオルタナティヴは礼を述べる。
いい経験になった。これで自分は更に強くなれると思う。今は純粋に感謝しかない。
弦斎がオルタナティヴを促した。
「ささ。身体が冷えないうちに熱いシャワーを浴びてきなさい。一応、水着を着たままでなら男女共同で使用できるシャワー室があるが、なんなら付き添おうか? マッサージもしてやるぞい。実は針灸とマッサージと整体は免許をもっておるのじゃよ」
「その前に、一つだけ確認してもいいかしら?」
「ん? 何じゃ?」
「本当は何秒くらい失神していたのか、教えてくれない?」
とぼけた顔で、弦斎が答える。
「みみ架が言った通りに、ほんの一瞬じゃ」
嘘だな、とオルタナティヴは直感した。
「教えてくれたのならば、水着なしで一緒にシャワーを浴びてあげるわ。それからマッサージもお願いしようかしら。特に胸とお尻を重点的に、ね」
とどめのアピールとして、スパーリング用衣装の胸元を引っ張り、大胆にはだけて見せた。
乳首が見えるか見えないかのギリギリまで胸を晒す。
鼻息を荒くした弦斎の視線が、オルタナティヴの豊かな胸に釘付けになった。鼻の下が伸びまくっている。目尻を下げた弦斎が正直に答えた。
「みみ架には内緒じゃよ? 本当はのぅ、たっぷり二十秒くらい失神しとったわい」
(二十秒……か)
やはりお人好しで優しい子だ、とオルタナティヴは再認した。
ご丁寧な事に、二十秒間もいつ失神から回復するかも定かではない自分を、ずっと同じポーズを維持して待ち続けていたのだから。
これで――満足だ。少しの悔いもない、最高のスパーリングだった。
はだけた胸元を戻して、オルタナティヴは踵を返した。
一刻も早くシャワー室に入り、そのまま座り込んでしまいたい。視界がグラグラと揺れて、頭が重い。休んで体力が戻ったら、医療センターで脳の精密検査を受けなければ。
一緒にリングを降りようと付いてきた弦斎を、一睨みで足止めする。
「教えてくれてありがとう。アタシの冗談を真に受けたふりまでしてくれてね。もしも委員長に教えたのがバレたとしても、ちゃんと冗談で釣り上げたと説明してあげるから」
「え? 冗談?」
目を丸くして、キョトンとなる弦斎。
そんな弦斎をクールな視線で射貫くと、オルタナティヴはダメ押しした。
「そのリアクションに笑ってあげられなくてご免なさいね。やはりアタシとお爺さんでは冗談の波長が合わないみたいだわ。それじゃ、女性用シャワー室を借りるから」
むろん弦斎が本気に取っていたのは百も承知だった。
あんまりじゃ~~!! スケベ老人の号泣を背中に、オルタナティヴはリングを降りた。
最後に、セコンドをしてくれたロイドに目礼する。
ロイドは目線で返礼すると、老人の純情を弄ばれた、と泣きじゃくる師に頭を抱えてしまう。
充実感に、オルタナティヴは右拳を握りしめる。
(もっと、もっと強くなれる)
セイレーンに約束した『生涯不敗』を守り通す為には、もっと強くならなければ――
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…
里央に肩を貸してもらっていても、みみ架は足を引きずりながらでしか歩けない。
すでに救急車は呼んでいる。
救急隊の現着前に道場の玄関まで行きたい。ストレッチャーで運ばれるのは嫌である。
こちらが先に本気になったとはいえ、スパーリングにも関わらず、完膚なきまでに痛めつけられてしまった。オルタナティヴの方が遙かに甚大なダメージを受けているはずなのに、超人的な肉体ゆえに平然と振る舞われてしまっているのが、少しばかり悔しい。
オルタナティヴも強がっているだけで限界を超えている――と理解はしているのだが。
(ものの見事にダウンを食らったわね)
強烈な一発を浴びたが、脳のダメージは心配いらないだろう。もう頭はスッキリしていた。脳へのダメージ蓄積は、細かいパンチを不完全な形で長時間もらい続ける方が危険といわれている。ヘッドギアも主目的はダメージ軽減ではなくパンチカットの予防だ。逆にヘッドギアを装着していると、ノーヘッドギアより脳にダメージが蓄積するという説さえあるのだ。
「大丈夫? ミミ」
「全然、大丈夫じゃないわよ。けど、回復はするでしょう。……たぶん」
「た、多分って」
みみ架はすでにグローブを外して、バンデージを切り取っているが、骨折している右拳は腫れ上がっていた。拳にテニスボールが入っている様な膨れ具合だ。氷やコールドスプレーは使えない。それは腫れが引いて、炎症を抑える段階になるまで厳禁である。
折れている肋骨は呼吸に支障をきたす程に痛いが、反対に右手の感覚は消失していた。
青ざめる里央に、みみ架は明るく笑いかける。
「これでも運はいい方だから。だからこの拳は完全には砕けきっていないと信じている」
「KOで勝ったとはいっても、これじゃ……」
みみ架は里央の言葉を訂正した。
「いいえ、逆よ。あえて勝ち負けを決めるというのなら、負けたのは――わたしになるわね」
「なんで? だって最後には完璧に失神KOしたよね?」
首を横に振り、みみ架は真実を説明する。
本当は肋骨の骨折に関係なく、最後の左フックを寸止めできたのだ。
けれど、できなかった。
オルタナティヴのライトクロスを前にして、我を忘れてKOしにいってしまった――
あの右にしても、完璧に軌道上からヘッドスリップしていたのに。
それだけのライトクロスだったのだ。
倒してしまった後、みみ架は愕然となった。十秒以上、呆然自失に陥ってしまった程だ。
(本当に――無様な結末だった)
「……ま、それを素直に教えない程には、わたしもお人好しじゃなかったって事よ」
みみ架は苦笑して誤魔化した。
少しどころか、嫉妬するくらい悔しかったから――である。
「そっかぁ。でも強かったのはミミの方だよね?」
その言葉には、事実として頷くしかない。
「ええ。現時点ではという但し書きが付くけれどね。百回戦えば九十九回勝てるだけの実力差があるでしょう。殺して構わないのならば、所要時間は三分以内ね」
「勝率九十九パーセントって、でも、一回は負けるんだ」
お世辞や謙遜などしないという、みみ架の性格を知っている里央は首を傾げる。
みみ架は言葉を続けた。
「けれど勝負は一度きり――が現実よ。試合でのリマッチは別にしてだけどね。仮にわたしと彼女が真剣勝負をやったとすれば、きっとわたしは百に一度の敗北を味わうと思う」
それは予感ではなく確信めいていた。
オルタナティヴはセイレーンとの約束――あの戦いからの『生涯不敗』を貫くだろうと。
彼女の唯一の敗戦は、統護に喫したKO負けだけだ。その敗北にしても、オルタナティヴが意図して誘導した、ある意味では彼女の勝利と定義できる結末だった。
(ああ、そうね。そう考えれば堂桜くんのKO勝ちと一緒で、このスパーリングも徹頭徹尾、彼女が希望して演出した展開に沿った結果――彼女の完勝に違いないわ)
里央が質問を変えてきた。
「じゃあさ、ミミの彼氏とあの人だったら、真剣勝負でどっちが勝つかな?」
「惚れている欲目としては堂桜くん、と答えたいけれど……」
みみ架は遠い眼差しになる。
統護の初戦で相見えた時の二人と、今の二人は最早別人同士といっていいだろう。
真の最強を目指す少年。
生涯不敗を誓った少女。
似て非なる二人の在り方。そして根源は同一。
この両者がそれぞれの高みに到達した後に、もしも戦ったとしたら……
「そんなのわたしに分かる筈ないわ。たとえ〔神〕にだって分かりはしないでしょう」
みみ架は正直に言って、肩を竦めた。
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…
スパーリングから二日後。
頭痛と目眩、そして軽い吐き気に悩まされたオルタナティヴであったが、それも回復した。
精密検査の結果も異常なしであった。ダメージは抜けたと判断した。
よって、今日から行動――すなわち仕事を開始する。
その前に、みみ架が入院している総合病院に赴いていた。
関東圏でも屈指の大病院だ。堂桜系列の医療法人が経営している病院の一つである。
みみ架の右拳の手術は無事に終了した、と弦斎から聞かされていた。
本来ならば一ヶ月は入院しなければならない状態であるが、みみ架は自宅療養と検査通院を主張して、無理矢理に本日退院してしまうというから、見舞うのならば今日しかない。
病院の正面玄関に入ろうとすると……
「ど、どうして」
そんな声を漏らし、オルタナティヴは紅い目を見開いた。
彼がまさかこの場にいるなんて。
明らかに彼女を待ち伏せていたのは――想像もしていなかった男であった。
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