第四章 破壊と再生 21 ―選択―
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姉が堂桜家に潜伏している大まかな事情は、当の優樹から聞かされてはいた。
しかし、こんな事態になるとは聞いていなかった。姉だけではなく、父や母からも。
忠哉は泣きそうな声でヒステリックに言い返す。
「子供のお前が口出しする事じゃない!! いいか、これは大人の事情なんだ。優樹のヤツだって理解していた。進んで犠牲になったんだ。分かるか? アイツは男じゃなかった。その事を恥じて、【HEH】の後継者にはなれないからと、だからなんだよ! いいか智志。父さんの言う事をちゃんと聞くんだ。父さんの言う通りに勉強して、良い子にしていれば間違いない。そうすればお前の人生は安泰で幸せなんだ。だから、そんなメイドなんかよりも」
「いい加減にしろよ……ッ!」
ギリギリと歯を摺り合わせるように噛み締め、智志は父の台詞を遮る。
「智志?」
「俺の幸せなんて言うんだったら、どうして姉ちゃんが不幸になっているんだよ」
「何を言っている? 今はアイツの話じゃなくて、お前の話を……」
「理解、できないのかよ――」
薄々ではなく、最近ではハッキリと感じていた。父親は自分を愛しておらず、比良栄の後継者として、比良栄忠哉にとって『都合のいい息子』を愛しているだけだと。
そして姉は、父にとって不都合な息子だから、父親の愛を得られなかったのだと。
それでも優樹は家族や【HEH】の為に、精一杯頑張っていた。
その気持ちを、忠哉は自分に都合のいい導具として扱う事に利用していた。姉は利用されている現実を理解していた。
兄が姉だと――昔から気が付いていた。
けれど気が付いていないふりをしていた。
自室に戻るのが間に合わずに、優樹が屋敷の廊下の死角にしゃがみ込んで嗚咽を堪えている様子を目撃してしまった事は、一度や二度ではない。
優樹が男であろうと、心の痛みを誤魔化しながら女子と付き合って、そして更に傷付いていた事も知っている。
比良栄の嫡子として優等生でなければ――と、いくら勉学を重ねても、優秀な結果を残しても、父はそれが当然であり義務だと言葉で褒める事さえしなかった。
何の見返りもなく――目の前に一本の人参さえないのに、馬車馬のように莫迦みたいに一生懸命に、真面目に、ひたむきに競走馬のように走り続けた――大切な姉。
表向きは大企業の御曹司として扱われていたが、実相は、庶民どころか貧乏人の子供よりも親に何も与えられずに、虐げられてきた姉。
人より努力して優秀であれ。しかし他人と同等の見返りなど、お前には贅沢で分不相応だ。
これが――比良栄優樹の人生の全て。
楽しげな姉など見た記憶がない。嬉しそうな姉など見た記憶がない。
享楽を殺し、自身の願いと心を殺し、性別さえも殺し――つまりは殺されて、殺されて、殺されるだけの、そんな……そんな……
心を殺され続ける姉の姿と、戦いでボロボロになっていく姉の姿が――重なった。
「ぅぁぁぁああああああああああッ!!」
智志は忠哉にタックルして、押し倒すと、馬乗り――マウントポジション――になり、父を殴った。泣きながら殴っていた。
――助けるつもりだった。
今はまだ親の庇護下でしか生きられない身であり、すでに本心では軽蔑している両親に大人しく従っているふりをしつつ、力を蓄え、そして大人になった時に、姉を救うつもりだった。
父親と母親の喉元に牙を突き立てる覚悟があった。両親よりも姉が大切である。
ごっ、ごっ、と拳がほお骨に当たる音が響く。
「ちくしょう! っくしょうっ!」
拳が腫れる。だが、そんな痛みは些細ですらない。
甘かった。
本当に考えが甘かった。姉が父と母の食い物にされる前に、なぜ二人で逃げ出さなかった。
姉の心の痛みを軽視していたのではないか? その結果が今だ――
「ひぃぃいいいいッ」
息子に殴られ続ける忠哉は、不格好に顔を守ろうとするだけで、反撃できない。
「――そこまでです」
ルシアが智志の手首を掴んで、止めた。
そのまま両腕を引き上げて、智志を忠哉から引き剥がした。
救われた格好の忠哉は、丸まったまま動こうとしない。
「止めるなよ、メイドのお姉ちゃん」
「ソレは貴方が拳を腫らしてまで殴る価値のあるモノではありません」
落ち着いたルシアの台詞で、智志の頭から血の気が引く。
拳を解いて、力なく項垂れる。
「俺は……どうすれば……」
「姉君を救いたいのならば、盟友として業務提携をいたしませんか? 比良栄の若き当主」
その言葉に、智志は驚いた顔で背後の少女を振り返る。
ルシアはビジネスライクな口調で続ける。
「貴方が姉君の人生と心を救いたいのならば、共に歩むべきはそこの男ではなく、我らが堂桜一族です。まだ幼き貴方に決断を迫るのは酷だと承知した上で、比良栄の当主としての貴方に問いましょう。貴方はそこの男と堂桜一族――どちらを選びますか?」
智志が口を開こうとした、その時に、忠哉が喚いた。
「騙されるなぁ! 堂桜は【HEH】を乗っ取ろうとお前を騙すつもりだぞ!!」
「お父さん……」
心底から失望した声で、智志が漏らす。
堂桜財閥と【HEH】の規模と社会に対する影響力の差を考慮すれば、堂桜がその気になれば、すぐにでも比良栄を潰せるだろう。まさかその程度が理解できていないとは……
「馬鹿が!! メイドの小娘が! いいか、お前たち堂桜が我が社の大株主とはいっても、」
「問題なく、次の株主総会において約七割の票を操作できます」
「――ぇ?」
呆けた顔になった忠哉に、ルシアは表情を変えずに伝える。
「確かに堂桜が所持している【HEH】の総株価は、貴方がいった通りに全体の九パーセントです。しかし、このルシア・A・吹雪野が間接的に影響を及ぼせる株主の票の合計は、約六十八パーセントとなります。別に信じていただく必要はありませんが」
「お、お、お前は一体――!?」
「ワタシはネコの飼い主で、ご主人様――堂桜統護のメイドです。それ以外の役割も仕方がなく担っておりますが」
ルシアは智志への問いを再開する。
「比良栄智志。貴方が【HEH】を継承し、その全従業員の生活と人生を背負うと決意できるのならば、ワタシは次の株主総会で、貴方の父親を含めた反堂桜分子を全て経営陣から排除します。代わりに堂桜の息がかかった役員を送り込む予定です」
「それは堂桜による比良栄の乗っ取りじゃないのか?」
「通常ならば、そう解釈されるでしょう。しかしワタシは確約しましょう。貴方に堂桜による経営者としての英才教育を課し、貴方が【HEH】を正式に継ぐまでに、堂桜の経営陣の手で現状の膿を出し切って企業改革してみせると。誤解によって【HEH】の士気を下げず、新たなる盟友として契約する契機と、その証として堂桜宗護を連れてきました」
ルシアに視線を向けられ、宗護は頷いてみせる。顔には若干の苦笑が見られる。
「これから宗護と貴方で契約を結んでもらいます。その映像と貴方の姉上の映像を証拠として合わせれば、【HEH】は経営陣交代に対しても、社員の士気を損ねずに、かつ優秀な社員を流出させる事なく、健全な改革を実現できるでしょう」
智志は油断なくルシアを値踏みした。
「分からないな。そこまでの価値が【HEH】と俺にあるのかい?」
「あります。少なくとも、貴方にはそれだけの価値が。そして堂桜グループ内にも【HEH】以上の技術を有する同種企業はいくつもありますが、それでは駄目なのです」
智志は表情を緩めた。父の帝王学教育に少しだけ感謝しつつ。
同族経営だけで肥大化したグループ企業は外からの風通しが悪くなり、血が濁っていく宿命だ。認識や常識、世界が、そのグループ内だけになってしまうからである。単にコストカットや意思疎通のみを考えればメリットはあるが、同族意識のみでは、いずれ破綻していく。
その破滅を回避する為に、グループ企業と競合できる提携企業との競争と、風通しが必要なのである。
「――だね。そんなの基本中の基本だ」
智志の様子に、忠哉は声を張り上げた。
「馬鹿なっ! 敵である堂桜と手を組もうなどと、理解できない!! お前は駄目になってしまったのか!? もう駄目なのか? は、話し合おうじゃないか、智志ぃ! 考え直すんだ」
悲しげな怒鳴り声で、智志は返答した。
「俺は父さんに、何度だって『話し合おう』って言ってきた! 優樹姉ちゃんについて話し合ってくれって! それを散々無視して、今になって――マジでふざけるなよ!!」
「そ、それは」
「アンタに俺が理解できなくて嬉しいよ。アンタの理解の範疇になくて、今は心底からホッとしているからな」
それきり智志は父に視線をやる事はなかった。
そして【HEH】の実権から追放された後に、息子の温情によって形式だけの相談役に収まる事となる忠哉との、父子としての最後の会話となった。
「俺が堂桜の盟友になるとして、優樹姉ちゃんはどうなる? 悪いけれど、俺はお姉ちゃんがいない世界で【HEH】の社員の人生までは背負えないよ」
「ご心配ならずとも、貴方の姉君はワタシの主人――堂桜統護が必ず救います」
智志はそれでも首を縦に振らず、しばしルシアを見つめた後、慎重な声で問いかけた。
「いや、それだけじゃ駄目だな」
「と、いいますと?」
覚悟を決めた真剣な表情で、ルシアに最後の言質を要求する。
「――堂桜統護は、優樹姉ちゃんに相応しい男かい?」
ルシアは恭しく腰を折り曲げた。
「彼のメイドとしてワタシが保証いたしましょう。……我らが堂桜の若き盟友よ」
その言質をもって、智志は頭を下げたままのルシアを通り過ぎ、宗護へと歩み寄った。
年齢相応の幼さを排除した決然とした顔で、右手を差し出しながら。
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…
すでに太陽は身を隠し、月が存在を主張していた。
辿り着いた場所は、とある山陰地方の古びた山小屋である。
統護は月を仰ぎ、重々しいため息をつく。
追跡した跡地で最低でも二箇所の戦闘が行われていた。燃焼系の魔術痕跡からして、間違いなくロイドが撃退している。倒されていた相手は、堂桜の特殊部隊の差し金か。やはりロイドは強い。
(此処がゴールだな)
統護は無人の山を登る足を止めた。獣道に近かった山道の先にあった拓けた場所。
待ち構えている相手を、やや頼りない月明かりの下で目視した。
相手は、夜に溶け込むような漆黒の燕尾服を着ている執事の青年だ。
待ち構えている――という事はギリギリで間に合ったという事でもあり、統護は安堵した。
統護は彼に話し掛ける。
「よう。あの夜のケリをつけにきたぜ、ロイド・クロフォード」
此処が決着の地であり、もう邪魔をする者はいない。
ロイドが道を譲ってくれないのは、彼が発散している殺気からも明瞭であった。
それに。
もとより戦わずして、優樹を救えるなどとは考えてもいない――
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