第三章 終わりへのカウントダウン 9 ―惜別―
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湯船の中で、優樹は両膝を抱えて丸まっていた。
午後の九時を過ぎているが、統護と淡雪はまだ戻っていない。
夕食は一人で食べた。
(元々ボクの食事は一人きりが常だったじゃないか)
だから寂しくなんかは――ない。
比良栄家で家族が揃ってする食事は、父と母と智志の三人であって、優樹の席はない。
弟には「一人で食べる方が性に合っている」と説明していた。本当は――義母の視線に耐えられなかったからだ。父の愛情の無さにも。
たった数回、統護と淡雪と一緒に食卓を囲っただけで、こんなにも……
(だけど、それももう永遠に終わりだな)
選択肢はない。
ガラ、と曇りガラスの引き戸が開き、統護が入ってきた。
当然ながら一糸まとわぬ裸である統護を目にして、優樹は素っ頓狂な声をあげる。
「ぇえええぇぇええええええええっ!? なんで?」
優樹の反応に、統護は朗らかに笑った。
「やっと帰宅できたから風呂を、と思ってな。お前が入っているのなら丁度よかった」
「あ、あ、淡雪は?」
「アイツは最後に親父に顔を見せるって。だからもうちょっと遅くなる」
「そ、そ、そ、そう……」
統護は優樹の横にいこうと、湯船に足を入れた。
「ちょっと! かけ湯をしてよ!」
「へ? 別にいいじゃねえか。銭湯じゃなくて自宅の風呂だし」
「それから前を隠して!!」
「はははははは。ンだよぉ。そんなに俺のって大きいか? 照れるぜ」
「頼むからブランブランさせないでってばぁ」
泣きそうな顔になる優樹であったが、それでも統護の股間から視線を外せない。
統護はUターンして、風呂椅子に腰掛けた。
「かけ湯っていうか、だったら背中を流してくれよ。男同士、裸の付き合いしよーぜ」
普段は着痩せしているが分厚く逞しい背中を見つめて、――優樹は力の抜けた笑みを零す。
ざば、と湯船が波打った。
立ち上がった優樹は、身体を隠さずに言った。
「――統護。こっち向いてよ」
声をかけられて、統護は振り返った。
統護の目が大きく見開かれる。
立っているのは、肉に乏しい華奢な男子ではなく、細身で出るところが出ている美しいスタイルの少女だ。
「お、お前……」
優樹は照れくさそうに、はにかむ。
「ゴメンね。今まで嘘ついていて。あ、どうしてボクが男として生活しているのかって事情は、後で淡雪に聞いて」
「いや、その、ええと? 俺、邪魔みたいだから」
イニシアチブが逆転し、優樹はニンマリと笑みを深めた。
「逃げちゃダメだよ、統護。ほら、背中流してあげるから、裸の付き合いしよう!」
「おいおいおいおい!」
「あはは。別にエッチな事しようってわけじゃないからさ」
動揺しまくっている統護に、優樹は笑い声をあげた。
すっきりした気分である。今の今まで自分が味わっていた思いを、まとめてお返しできた。
優樹は統護の後ろに腰をおろし、統護の背中を洗い始める。
統護は気まずそうに謝った。
「なんつーか、今まで色々とスマン。悪気はなかったんだ」
「いいよいいよ。今となっては楽しかったし、面白かったんだから」
穏やかな笑みを湛えて、優樹は広くて筋肉質な背中をスポンジで擦った。
……思えば、本当に楽しい一時であった。
自分が男だと信じ込んでいた幼少時を除き、楽しい記憶なんてなかった。
ただ父の期待に添えるようにと、自分を殺し、優秀な跡取りである優等生を演じる為だけに努力をした。それは正確には努力というよりも我慢であった。
性別を偽っている為、友達とは距離を置かざるを得なかった。
優等生である為に、他人が楽しんでいる時間も努力に費やしていた。
女に告白される度に、心にヒビが入っていくようだった。
優秀な成績を収めても父はそれが当然だと、一切の愛情を向けてくれなかった。
それが……
統護と過ごした、ほんの僅かな時間。
「――ボクにとって、かけがえのない大切な時間だ」
きっと、思い出のない自分にとって、初めて友達との思い出と呼べる――宝物。
仕上げとして、統護の背中に洗面器でお湯をかけた。
「よし! これでお終いだ」
勢いよく立ち上がった優樹は、足を滑らせ尻餅をついた。
転んだ音に、統護は慌てて振り向いて――固まった。
統護の視線は、大きく開かれている優樹の股間に釘付けになっている。
「あいたたた。失敗失敗」
照れくさそうに笑いながら、優樹は改めて立ち上がった。
そして軽やかに一回転する。
「お願い統護。ボクの身体を――ボクの裸を忘れないでね」
美しい裸身を晒した少女の、その透明な笑みは、統護にはとても神々しく映った。
「優樹……お前は」
「じゃあ、ボクは行かなきゃ。もしも次に会えたのならば、きっとその時は――」
言葉を飲み込み、悲しげに首を横に振った。
これがサヨナラになるといいな、と彼女は統護を置いて風呂場から出た。
呆然と一人取り残された統護は、少女の後を追えなかった。
足が動かなかった。
本当は止めるべきだと頭では理解していたが、彼女の覚悟を感じ、動けなかった。
あの時と同じだ。
似ていた――ではなく同じだった。
元の世界で、優季が最後に見せてくれた笑顔と。
――〝統護に明日、伝えたいコトあるんだ〟――
クリスマスイヴの前日だった。
その言葉と笑顔を最後に、比良栄優季は統護の前から永遠に姿を消した。
また、同じ事になる予感がする。
「っくしょう……」
また、彼女と別たれてしまうのか。
統護は迸る感情を抑えられずに吠えた。
「ちっきしょぉぉおおおおおおおおおおおおおおおぁぁ~~~~~ッ!!」
…
堂桜本邸から出てきた主を、ロイドは恭しく迎えた。
「お待ちしておりました。堂桜統護とのお別れは無事に果たせましたか?」
「うん、終わったよ」
憑き物が落ちたような笑顔で、優樹は頷いた。
彼女は【聖イビリアル学園】の女子用制服を着ていた。
「どう? 似合うかな」
「とても似合っていますよ」
ロイドは普段のすまし顔を少しだけ緩める。
「本当は統護にも見てもらいたかったけれど、予定外にもっといいモノを見てもらえたから、仕方がないかな」
男の振りをするのは――もう辞めた。
そして、それが意味するところは……
優樹は執事を従えて、堂桜本家の屋敷から離れていく。
屋敷が見えなくなる前に、一度だけ振り返ってそっと呟いた。
サヨナラ、統護。
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