第三章 それぞれの選択 2 ―襲撃―
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朝日に包まれている孤児院の庭を、アリーシアは黙々とランニングしていた。
早朝の五時半から走っている。
ランニングの後は、統護が格闘戦の練習相手を務める約束だ。組み手程度ならば、統護も指導できる。あくまで我流に過ぎず、締里のようにプロの戦闘技術は教えられない。アメリカでの集中合宿でも、統護は教わる専門だった。トレーナーの真似事は専門外だ。
アリーシアのランニングを、厨房の窓から統護は眺めていた。
統護は感じた。
二日。たったの二日だ。
僅か四十八時間。それで彼女の世界が一変したのだろう。
一昨日の放課後に襲撃を受けて、出自の欠片を識らされて――アリーシアの世界が変わった。
不安で仕方が無いのだろう。
けれど、真実に向けて『最後の一歩』を躊躇していた。
踏み込めば、戻れないと予感しているのだ。
その最後の一歩の為に変わろうとしているのか。
彼女にとっての聖域であるはずの厨房を、他人に預けてまで自身を変えようとしている。
自分も世界が入れ替わった。
俺はどうなのかな、と統護は思った。
オルタナティヴとの一戦と美弥子との模擬戦。
二戦ばかり消化したが、まだ生死を賭けた戦いは経験していない。
結局、この異世界でも時間を見つけては継続している修練やトレーニングに関してだが、身体を鍛える必要はなくなった。よって技術的な部分に集中できる。その分の時間は浮く。だから、なおのこと心を鍛える必要があるのかもしれない――
(いや、それだけじゃないか)
今回のミッションを無事に終えたとして、その後、自分はどうするのか。
戦う理由は――まだない。
けれど、この異世界において、戦わなければならない気がしている。
元の世界に還る手立てを捜すのは、その後だ。
「ご主人様。味見をお願いします」
強引に顔の角度を修正され、ルシアに卵焼きを口に放り込まれた。
歯ごたえは雪のよう。ほんのりと甘く、卵と出汁の風味が完全一体となっている。
とても美味だ。
統護は驚く。家庭料理とは明らかにレヴェルが違っている。完全に一流のプロの味だ。
「どうです?」
「いや、めっちゃ美味いけど、よくこんなの作れるな。プロ級だって」
「メイドですので」
褒めてもニコリともせず、ルシアは調理に戻る。
何を考えているのかサッパリ不明だ。キスの感触が蘇る。人生で初だったが、とても良かった。意味不明であってもこんな美女で美少女とキスできれば、男としては本望だ。キスの後で、淡雪とアリーシアに散々なじられたが、後悔はない。
それにしてもルシアは本気で自分を主人にするつもりなのだろうか? 雇用契約書を用意できないし、給金は出せない。自由になる金銭は莫大だが、流石に『何でも買える』のではなく、用途には制限が付けられている。その制限は今の統護になってからの話であるが。
統護は首を捻るが分からなかった。しかしルシアの助けはありがたかった。
ファン王国の内乱が一段落するまで、朝夕の食事はルシアが孤児院に来て、担当してくれる事になっていた。そのお陰で、アリーシアは遠慮なく特訓に精をだせる。
謎の塊のようなメイド少女だが、彼女は凄腕のエージェントでもある。世界最大の国際的魔術テロ組織【エルメ・サイア】からの刺客も考慮すると、心強くもあった。
「おはようございます、お兄様」
そんな声に、統護は思考を中断された。
厨房の入口には、なぜか真白色の割烹着に身を包んでいる淡雪が立っていた。
誕生パーティの手伝いで、妹の料理のセンスを知ってしまった統護は、顔をしかめる。
この時の統護は知らなかった。
自分がこの後、昨夜から用意してあったアリーシアの作り置きと、ルシアの朝食と、淡雪の失敗作という三人前を食べる羽目になる――悲惨な運命を。
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…
場所は、北九州に居を構える新鋭企業の本社ビルであった。
この企業は【堂桜エンジニアリング・グループ】傘下では最も若い会社に分類されているが、近年の業績とその成長率は、グループ内でもトップクラスだ。
企業名は【堂桜テクニカル・トレード】。
貿易関係を主導していた【堂桜国際商会】が握っている既存の貿易ネットワークとは別の、独自ルートを新規開発して急速にのし上がっている技術系貿易会社である。
改築後の真新しさが眩しい、全面ガラス張りの本社ビルの四十階――ワンフロアを独占している、シンプルかつ洒脱な内装の社長室。
その中央に鎮座しているデスクだ。
「――社長。よろしいのですか?」
まだ年齢二十四才という、若き才媛として名を馳せている堂桜凛音は、秘書兼ボディガードの言葉に、【魔導機術】が組み込まれている電子書籍端末――ホログラムペーパーの速読を止めて顔をあげた。
「あによぉ。いま業績チェック中」
凛音は男勝りの迫力がある雄々しい美貌を、不愉快そうにしかめる。
秘書はいつもの反応と、平然と言葉を続けた。
「堂桜本家から緊急での強制呼び出しがかかっている件ですけれど……」
「予定に変更はなし。その日はシンガポール」
「しかし」
「外せない商談だって分からないのなら、アンタはクビ」
秘書は小さく嘆息した。しかし言い分は述べる。
「確かに秘書としては失格でしょう。けれども私達は貴女の護衛でもあるのです」
腹を抱えて、凛音はせせら笑う。
「ぷっ。あははははははははは! なにアンタ、あの狂人の戯言を真に受けているって? そんなの杞憂だし、それに【エルメ・サイア】が堂桜に喧嘩売るにしたって、私なんて分家筋の小物なんて相手にしないって」
グループ内の商売敵として瞠目や敵視を集めている――とはいっても、巨大血族である堂桜一族内での自分の立場など、端役ですらない事を凛音は理解していた。
高校時代からITベンチャー企業を細々と経営し、大学時代に企業として成長させて、かつ父親の企業を買収し、二十代半ばにしてここまで規模と年商を伸ばしてきたのだ。
一転して、凛音の表情に凄みが増す。
「ま。いずれは一族内でものし上がってやるけど」
今でも定期的に本家嫡男である統護にコンタクトをとっている。
噂では【DVIS】を扱えなくなる謎の症状によって落ち目らしいが、凛音にとっては逆に好都合だ。彼に取り入ろうと画策するライバルが自然と減るのだから。
相手は年上で傍系の自分に興味を示さないが、いずれは彼をモノにしてみせる。父の企業を乗っ取ったように、堂桜本家も嫡男の妻か愛人として食い込んで、乗っ取ってみせる。
秘書はなおも食い下がった。
「相手は世界最強の戦力を誇る魔術テロ集団です」
「防犯と警備に金は惜しんでいない」
凛音は力強く断言する。
堂桜系列の警備会社をあえて避けたとはいえ、業界最高水準の警備体制は敷いている。この一番傍に置いている彼にしても、月給二百万円も出しているのだ。むろんその給与に見合った実力と経験を有した一流の【ソーサラー】だ。
「いえ、ですからそういったレヴェルの話ではなく、」
ゴゴォォンンンッ!
台詞は、爆発的な轟音によって中断させられた。
防弾防刃防火機能を備えているはずの分厚い扉が、室内に向かって吹っ飛んできた。
社長席は吹っ飛んできた二枚の板――ドアの残骸――と正対している。
ドアとしての役割を失った長方形の物体は、ブーメランのように回転しながら、ビル外壁を囲っている映写機能付きの超強化ガラスに弾き返され、その重量を感じさせない速度で数度、派手にバウンドした。
「う、うそ……でしょ?」
想像もできなかった光景に、凛音の表情が恐怖で凍りついた。
ありえない。信じられない。外壁の正確な弾性係数は知らないが、こんな風に硬い重量物がゴム鞠みたいにバウンドするなんて。
秘書がボディガードとして凛音を背中に庇った。
すでに異常事態を察し、専用回線でSP用の特殊携帯情報端末で緊急コールサインを出している。しかし二十名は下らない部下達からの反応は未だ一切ない。
「警報は? ガードマンは? 警察は?」
怯えきった凛音の呟きに、闖入者が不敵な口調で答える。
「そんなの、このアタシの前にあって無駄に決まっているわね」
たった一人の女である。
闖入者は、学生服姿の上に黒いマントを羽織った、ポニーテールの少女であった。
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