第一章 パートナー選び 7 ―【EEE】―
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7
仮面の女性二人組の挑発を、史基は鼻先でせせら笑った。
ああ……。なんて分かりやすい。そして明瞭で潔い。
「闇討ちしなかったってコトは、そういうコトって理解していいんだよな?」
背の低い方が首肯する。
難しい話ではない。単純に史基を対抗戦から排除するだけならば、攻撃魔術による狙撃という手段を最初に採るべきだ。その初手が失敗した上で、この様に出迎えればいい。
最高率の第一手を慮外して、こうして挑んできたという事実。
それが雄弁に物語るのは――
「じゃあ、ご期待に応えるから、おっ始めようぜぇ。楽しい楽しい夜遊びをなっ」
賊が史基を調査済みなのは明白だ。ランニングコースを知るだけではなく、逃げたり助けを呼ぶのではなく、嬉々として火中の栗に手を突っ込む事さえも把握している。。
「――ACT」
史基が口にした単語は魔術――【魔導機術】における基本【ワード】だ。
起動用に設定されている共通単語であり、『アクセス・クリエイト・トランスファーメーション』という専門用語の略でもある。
起動言語に、史基の専用【DVIS】が反応する。彼の専用【DVIS】は右足首に嵌めらられているリングだ。
この【DVIS】は【魔導機術】に必要不可欠な電子デバイスである。
そして、単に魔術用デバイス機器を指す言葉だけではなく、【魔導機術】と術者を量子的に繋ぐ超次元システム――『ダイレクト・ヴィジョン・インジケイター・サポートシステム』の頭文字を繋いだ略称も兼ねている。
反応したリングが放つ紅い光は、埋め込まれている宝玉からのものだ。
この宝玉こそ、堂桜財閥が制御する機械技術と魔術師が秘める魔導技術をリンクさせる為に必要な最重要キーである。宝玉に宿る神秘のチカラが、【イグニアス】世界の人間が秘める魔力と【魔導機術】と呼ばれる技術機構の相互認識・相互転送を可能とするのだ。
史基の起動【ワード】を声紋認証し、同時に魔力を送られた専用【DVIS】は、堂桜一族が開発・管理するシステム――すなわち軌道衛星【ウルティマ】へアクセスした。
アカウントは『ノーマルユーザー』である。
アクセス成功。史基は意識内に【ベース・ウィンドウ】と呼ばれる電脳世界を構築する。この電脳世界では、現実世界での有視界と時間軸とは異なる、超視界と超時間軸による魔術オペレーションが可能となるのだ。
超次元で共有されるこの電脳世界も、軌道衛星【ウルティマ】で統合管理される。
専用【DVIS】をIDとして、ログイン開始――認証――完了。
史基の電脳世界と神経系統および全感覚がシンクロした。
同時に、史基の意識容量と【DVIS】の記憶領域の同一化が行われる。
超高性能・新世代自己進化型である軌道衛星【ウルティマ】内には、中枢頭脳として超次元量子スーパーコンピュータ【アルテミス】が搭載されている。その【アルテミス】によって演算領域を割り当てられた。
以上の行程により、史基の電脳世界が完成する。
次工程として、戦闘系魔術師は専用【DVIS】のRAM内に記憶させていた魔術プログラムを、己の電脳世界内に読み込む。そして演算機能によってコンパイルを開始した。
コンパイルに成功し、【ベース・ウィンドウ】に次々と実行プログラムが転送されてくる。
【ベース・ウィンドウ】内に、多数の【アプリケーション・ウィンドウ】が表示された。
このウィンドウ内にスライドしている膨大な数式が【スペル】と呼ばれる文字列で、コンパイルされた魔術プログラムでもある。
この【スペル】を魔術師は【コマンド】と【ワード】によって実行して、仮想世界である電脳世界を、現実世界の超常現象として顕現させるのだ。魔術現象として物理現象を上書きし、エミュレートする。
この魔力と機械技術の組み合わせによる『現実の事象改変システム』を魔術――【魔導機術】と定義しており、独自理論によって運用可能な技能者は魔術師と総称される。
このシステム・リンケージと電脳世界のセットアップに要した時間は、僅かコンマ五秒だ。
軌道衛星【ウルティマ】の性能と、史基自身の能力の高さを物語る速度である。
【アプリケーション・ウィンドウ】内で選択するのは、『戦闘系』フォルダだ。そしてインストールされている『炎系』のアイコンをクリックした。
最後に【コマンド】を追加書き込みして、史基は【ワード】を口にする。
「いっくぜぇぇ……ッ! 《ファイヤ・ライド》!!」
彼の足下に【魔方陣】が描かれ――炎が吹き荒れる。
その炎は板状に収束し、史基はその炎板に乗っていた。板の形状は流線型だ。すなわち炎のサーブボードである。これが史基の【基本形態】だ。
蛇のようと形容される獰猛な笑みと共に、史基は二人組を挑発した。
「ご覧の通り、こっちは準備オッケーだぜぇ。ほら、お前達も魔術を立ち上げろよ」
紅の二人は揃って「――ACT」と唱えた。
史基は魔力の奔流を察知する。【魔導機術】というシステムは、事象改変のガイドラインは軌道衛星の量子コンピュータにおける演算機能に依存するが、割り当てられる演算領域の使用キャパシティ――シンクロする意識容量は、純粋に魔術師の資質と能力だ。そして顕現される魔術現象の『強さ』と『規模』は、意識容量と魔力総量および魔術理論によって決まる。
史基は二人の様子に眉を潜めた。
(おかしいぜ。魔力の変動をほとんど感じ取れなかった。それに――)
――【基本形態】を外観から識別できない。
【基本形態】とは、魔術師が様々な魔術を顕現させる際、その起点となり、同時にオペレーションシステム的な役割を果たすベース的な魔術である。
魔術プログラムに組み込むエレメント――『属性』によって『特性』が方向づけられるが、魔術特性を効率的かつ多様的に運用するのには、基点となるベース的な魔術――【基本形態】から派生させるのが、様式となっていた。
多種多様な【基本形態】が存在する。史基の《ファイヤ・ライド》のように属性の魔力塊や幻像を召喚する形式。直接、魔術事象を身に纏う形式。【ゴーレム】や【使い魔】を使役する形式。極まれに存在する【結界】を【基本形態】として機能させられる者。最後に――【基本形態】や属性を隠す者。
「なるほどねぇ。【基本形態】が識別不能って事は使用エレメントは特殊系統か」
もっともポピュラーな四大要素――地・水・火・風。
陰陽(光と闇)といった両儀。
雷や重力といった単一で独立定義されている特殊系。
基本理論として、ほとんどの魔術師はひとつの【基本形態】において、ひとつのエレメントしか運用しない。否、複数のエレメントを一つの魔術に組み込むと理論が複雑化しすぎるので、プログラムのバグと意識容量の節約の為にそうせざるを得ない。例外もいるが、それは怪物や超天才といった規格外だ。
特殊系統の魔術特性であるのならば、その効果と手段は騙し手に近い場合が多い。ゆえに手の内を隠そうと、【基本形態】から使用エレメントを知られるのを避けるのだ。
(攻撃してこないってのなら、遠慮はいらないよなぁ)
史基は好戦的に叫ぶと、先手をとる。
「こっちはメジャーな【火】だぜっ! 俺様の夜遊びは女じゃない方の火遊びでなぁ! カウンターとれるってのなら、やってみろやァ!!」
炎のサーブボードの下にあった【魔方陣】が先にいく。
それだけではなく【魔方陣】から炎の波が発生した。
「キタキタキタキタッ! さいっこうのビッグウェーブだぜぇぇええええっ!」
史基は炎の波でサーフィンする。
紅の二人組を右周りで迂回して、波飛沫を炎弾として撃ち出した。
ドゴンゴンゴンゴンゥンッ!!
炎による爆裂音が、夜の空気を劈く。
「ぃぃいいいいいいいっ、やぁほぉぉおおおおおおぅぅっ!!」
嬉々として声をあげる史基。
相手がどんな魔術特性であろうと、これだけの火力を受けて無事なはずはない。仮に無事であるのならば、その防御手段から相手の魔術特性を見極めるのには――
真紅の灼熱線――炎の砲撃が、炎の波に撃ち込まれた。
ゴゥオォォオンッ!!
その砲撃は史基の波よりも、魔術的に上位現象の炎であった。温度や圧は関係ない。
二撃、三撃と続く。
穿たれた波が大きく揺らぎ、史基は体勢を崩す。とっさに立て直すが、精神までは無理だ。
「え? 炎だと! どういう事だ!?」
頬が引き攣る。動揺を抑えられない史基は、大きく後退した。
二人組は追撃せずに悠然と立っている。
無傷だ。
炎で砲撃してきたという事は、史基の炎弾も【火】で相殺したに他ならない。
しかも完全にパワー(魔術出力)負けしていた。
「何でだよ!? お前達、使用エレメントが【火】なら、どうして【基本形態】が見えない!?」
あり得ない。考えられない。史基は混乱してしまう。
魔術サーチに検知云々ではない。
もっと単純に、砲口として必須である筈の砲台や【魔方陣】すらないのだ。
炎弾を撃てる【AMP】を手にしているわけでもない。発動のタイムラグが大きく戦闘には向かない単発(単一)魔術でもない。認識できない【基本形態】から【火】の砲撃を射出するなど、魔術理論の常識を覆す現象なのだ。
小柄な方の女が、淡々と言う。
「答えは、この紅き衣装による性能――【EEE】だ」
トリプルE。初めて耳にする単語である。
「つまり【EEE】とやらは【基本形態】を隠蔽する【AMP】ってわけか……」
「その通り。正式名称を《エレメント・エフェクト・イレイザー》といって、展開された【基本形態】の外観を吸収する機能を指す。この【AMP】によって魔術師は【基本形態】による情報を相手に与えることなく魔術戦闘を行える。術式の作用に伴う魔力の移動や変位も、最高で九割以上、相手に察知されるのをカットできる」
史基は顔を歪める。
「せこいぜ。ってか魔術戦闘のロマンを理解していないぜ。それにその【AMP】に需要があるとも思えないな。少なくとも俺様はそんな【AMP】など断じて要らないぜ」
そう言いつつも、史基は【EEE】の有用性を理解していた。
魔術特性を悟られない状態で戦えるのは、戦法によっては絶大なアドバンテージになる。
今回のような闇討ちだと、相手に情報を与えずに済む。
「……まあ、ペラペラと説明してくれた事だけは感謝するけどな」
「我らに倒された後、病院のベッドで宣伝してもらう為だ。病室は手配済みだから心配無用だ。生憎とこのスーツ型【AMP】は開発されたばかりで、まだ全世界で十着ほどしか受注していないので宣伝が必要でな」
背の高い方が初めて口を開いた。
「超高コスト品ゆえに、完全受注生産のワンオフ品だ。断じて要らないなどと言わないで、試しに一着注文してみないか? 性能と品質は保証する」
「いくらだよ?」
「現状の生産体制だとペイラインは定価八千万円ほどだが、今なら治療費と慰謝料を引いて大サービス特価、六千万円で提供しよう。貴様が退院する頃には届けてやる」
「アホか。高過ぎだぜ」
相手が自分と同じ【火】のエレメントを使うのは、すでに判明している。初手さえ見てしまえば【EEE】とやらも大した脅威ではない。ここからは、いくらでも応じようがある。
(美弥子センセとの秘密特訓の成果。今こそ見せてやるぜ)
今の自分は、あの時の自分ではない。
史基は炎の波をマックスにすると、その上に乗り《ファイヤ・ライド》で疾走した。
相手の背後に回る。隙は見えない。
だが焦らない。感情を抑えろ。数多の中で数パターンの展開をシミュレートする。
炎と炎の対決ならば、負けるわけにはいかない。二対一であろうと関係ない。
先程とは違い、最大火力に設定してある。温度ではなく魔術現象としての強度を最高出力にした。今度は炎の砲撃など通用しない。
史基は炎の波から――墜ちた。
波乗りをミスしたのではない。波が止まっていたのだ。
勢い余って地面を転がる。回転受け身から素早く起き上がり、離れてしまった《ファイヤ・ライド》を呼び寄せる。再び炎の波に乗ろうとして、愕然となった。
炎の波が凍っていた。
波ではなく、波型の壁と化していた。
いつの間にか、炎の波が『波の氷像』となっている――
蒼白になった史基の顔が、絶望で凍りつく。
「そ、そんな……」
魔術の炎が凍らされた。炎が凍るという通常物理ではあり得ない超常現象だ。炎の波が炎の砲撃で揺さぶられたのとは、魔術現象による上書き・干渉としての次元が違う。
それだけではない。純粋な魔術攻撃を受けたのに、史基の電脳世界――現実を上回る超次元での時間――での感知と対応が間に合わなかった。否、気が付けずに見逃してしまった。これが……【基本形態】をカモフラージュする【EEE】の真の性能か。
小柄な方が冷淡に告げた。
「これで理解したか? 実力の差と、この【EEE】の実戦的な運用法を」
「更に値引きして五千万円にしてやるから、病院のベッドで購入を再検討するがいい」
ごごごごごごごごッ……
史基の背後を囲っている氷の波が粉々に砕けていく。いや、崩落していくというべきか。
そして――再び炎の砲撃が数条、史基に撃ち込まれた。
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…
伊武川夏子は、とある総合病院に赴いていた。
首都圏の外れに位置する、療養所と研究施設を兼ね備えている最高級かつ最先端の病院だ。
この病院の存在を知る者は、ごく限られている。
政治家や大富豪が、一泊数百万で世間からの隠れ蓑に使用したりするのだ。
かつて国家機密部隊に在籍していた彼女だから訪ねられた場所である。今夜ここに来られる理由は、いまや世界的な超有名人となってしまった身内が入院しているからだ。
見舞い――とはいっても、世間の誰もが仮病であると承知していた。だから様子見だ。
目的の病室のドアをノックした。
「……冬子、入るぞ」
返事はない。夏子は小さく嘆息し、ドアをスライドさせて入室する。
広々としたセミダブルのベッドには、夏子の妹が上半身を起こした姿勢で寝ていた。
伊武川冬子。
冬子は精神の不安定と体調不良を理由に、この病院に身を潜めていた。
「具合はどう?」
見舞い品であるフルーツバスケットを、夏子はベッド脇にあるガラステーブルに置く。
視線を合わせず、どこか他人事めいた口調で、冬子が言った。
「お姉ちゃん。私、いつになったら助けて貰えるのかな?」
「いや、誰も助けてくれない」
夏子は断じた。
不正発覚により、冬子は追い詰められていた。通称・クィーン細胞――STAE細胞と名付けられた、魔術処理によって製造可能な新型万能細胞が、ねつ造だと判定されていた。
科学者ではない夏子には、事の真偽や詳しい専門理論はわからない。いくら天才揃いの魔術師であっても、基礎知識に乏しい門外漢の分野にまでは、流石に知悉していないのだ。
だが、冬子の不正とねつ造が、ニホン科学界の信用・信頼を世界的に失墜させたのは事実だ。
「誰もお前を助けられない。冬子を救えるのは、科学者・伊武川冬子博士だけだ」
「なんで……。私、私、悪くないのに」
「それを決めるのは、お前本人じゃなくて周囲だ。秋人兄さん――佐町コーヂと同じく」
偶然というよりも神の悪戯か。
蘇ったベートーベンこと、佐町コーヂの不正も、ほぼ同時期に発覚していた。
重度の聴覚障碍というのは偽りで、作曲もできない事実が露見した。ゴーストライターをしていた音大講師が、懺悔会見を開いたのだ。自身も共犯者と謝罪したゴーストライターと秋人は、未だに揉めている。世間は秋人を糾弾し、苛烈なバッシングに晒されている最中だ。
「秋人お兄ちゃんは男だもん。私、女の子だよ? なんでこんなに叩かれているの? 女性なのに男と同じく批難されるなんて変だって。おかしいよ」
「責任に男も女もない。権利も義務も同等だ。お前は女の子じゃなくて、今年で三十路になる大人で、グループリーダーという地位で、血税から研究費と給与を得ている責任者なんだ」
現実と責任から目を背ける冬子に、夏子は忸怩たる思いで告げる。
ゴーストライターを使った秋人の詐欺行為は、確かに酷いの一言に尽きる。しかし、著作権云々を差し引けば、現物の音楽は存在しているのだ。
――対して、クィーン細胞は存在そのものが疑問視されている。
発表した論文から、文章の剽窃と添付画像の加工および転載が指摘されている。論文撤回を複数の研究機関および関係者から要求されていた。
その上、冬子の論文通りに実験して、クィーン細胞の生成に成功した、という報告もない。世界中のバイオ研究所が、冬子および【魔術化学研究所】の発表によって、再現実験を行っているのに、ただの一例すら成功報告がない。
ネットでは、冬子の過去や実験の不備、そして理論の穴についての話題で、前例のない炎上が起こっている。それもニホン国内だけではなく、世界規模で。
国民の血税が多額に投入されてのプロジェクトに対して、冬子には説明責任がある。
しかし冬子は公式会見から逃げて病院に引き籠もっていた。
「科学者として会見するんだ、冬子。実験データ・物証と理論によって覆せないのならば、せめて責任者として誠意を込めて謝罪しろ。秋人兄さんは少なくとも会見で罪を認めた」
冬子は青ざめて頭を抱えた。
「無理。あんな会見にのぞむなんて……。私にはできない」
インチキが発覚した佐町コーヂは会見を開き、己の罪を認めた。その時の記者会見は、怒号と批難が飛び交う、まさに地獄絵図であった。面子を潰された格好になった、ニホン音楽会の重鎮と彼を持ち上げたマスコミは、親の仇とばかりに牙を剥いた。
「泣き言をいうな、冬子っ!!」
発表会見では、あれだけ得意満面で有頂天だったのに……と、夏子は歯噛みする。
窮地で矢面に立つ覚悟がないのならば、どうしてあんな会見を開いた。
「でも、私は女性だから、男みたいには……」
「国内ではそうかもしれないが、海外での批難をお前だって知っているだろうに!」
ニホン国内では『女性だから厳しくするな』という擁護もある。しかし海外では冬子は男女関係なく、大人の責任者として扱われている。つまり女だからという容赦などない。
冬子はめそめそと泣き始めた。
「もう元に戻りたい……。お願い元通りにしてよ、お姉ちゃん」
「金なら私が工面してやる。奨学金、給与、研究費――お前が税金から得た金は、全てこの私が国に返納してやる。賠償金が生じても私が何とかする。だが、お前が科学者として、研究者として生きていくには、科学の分野で反論して己の潔白を科学で証明するしかないんだ」
夏子は唇を噛む。両親が弁護士を手配していると聞いた。やり方を間違えると、最悪で詐欺罪と横領罪で投獄――という末路すらある厳しい状況だ。
本音をいえば、伊武川冬子が科学者として再起するなど素人目にも不可能だ。学会から永久追放処分は確定していた。冬子と共同で研究したいという者も現れないだろう。
「悪気はなかったんだもん。コピペが駄目だなんて、知らなかったの。提出した論文だって、ちょっとした手違いで下書きだったの。画像の加工だって判りやすくしようって思っただけ。本物の画像だってあるんだから。悪意がない、ちょっとしたミス、手違いだもん」
「なあ、冬子。科学は主観じゃなくて、客観の世界なんだろ? 不正かどうかを決めるのは、お前の主観じゃない。調査委員会の判断だ。論文の不正が覆せないのならば、せめて誠意をもって国民に謝罪しよう? 真っ当な研究者達や、今回の件で迷惑をかけた【魔術化学研究所】の方々にも。どんなに世間がお前を責めても、私はお前の味方だから」
泣き止まない冬子から、夏子は視線を逸らした。
ベッドの上に散乱しているのは、どれもファッション雑誌であった。科学誌や学術専門書がない。専門書や資料は電子書籍やPCのデータベースで管理しているのであろうが、電子書籍端末もタブレットPCが、何処にも見当たらない。
開かれているファッション誌に載っている特集記事――《ピープルズ・プリンセス》《シンデレラ・プリンセス》と、世界中で脚光を浴びているファン王国の若き第一王女、アリーシア・ファン・姫皇路のものだ。アリーシアはその劇的な生い立ちと美貌ゆえに、今やアイドルやハリウッドスター並の扱いを受けている。
夏子は奇妙な感覚を味わう。夏子の知る生徒としてのアリーシアは、確かに際立つ美女であったが、世間に反駁心を抱いている貧乏な孤児、というイメージしかない。
何処にいてもアリーシアの写真を見る。
ニホン人初にして唯一のスーパーモデル、ERENAに匹敵している人気振りだ。
「……お姉ちゃん。私は、アリーシア姫様みたいになりたかったの。クィーン細胞があれば、私だってあんな風になれるって言われたから、だから会見開いたのに。なのにみんな私を虐める。助けてくれない。アリーシア姫様みたいに扱ってくれない」
「お前はきっと『お姫様』というモノを根本的に勘違いしているよ、冬子」
駄目だ。これ以上の会話は――痛い。心が痛い。
夏子は気分転換しようと病室から退出した。泣きたい気分だった。
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本作品は、暴力・虐め・性犯罪・殺人・不正行為・不義不貞・未成年の喫煙と飲酒といった反社会的行為、および非人道的、非倫理思想を推奨するものではありません。また、本作品に登場する人物・団体などは現実とは無関係のフィクションです。