第二章 シンパシー 3 ―オルタナティヴVS鈴麗①―
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3
「かはっ!」
淡雪と優季は強制的に肺内の空気を排出させられる。
中指を立てて拳を握る――一指拳を同時に喰らったのだ。繰り出したのは、案内係であるはずの女であった。
右拳で淡雪を、左拳で優季を同時に穿ち、即座に二人の口へガムテープを貼り付けた。
呼吸が――できない。
まさに一瞬の出来事だった。
驚愕に、淡雪の両目が見開かれる。
(油断した、とはいっても、この鮮やか過ぎる手際は!)
魔術を立ち上げる為の【ワード】どころか、警句、いや悲鳴さえ封じられた。
殺気どころか、闘気、いや隙を窺う気配すらなかった。淡雪だけではなく優季も戦闘系魔術師としての厳しい訓練を受けているのに、攻撃の予兆を一切感知できなかった。
間違いなくプロの暗殺者である。
二人がターゲットならば、先程の一瞬で音もなく殺せるのは確実だ。
しかし、それをせずにあえて二人の声と動きだけを封じたという事は――
――ターゲットは、無防備な背中を晒してるユリ。
女性の案内先は、館内の客席ではなく、黄泉の国への入口である。
足音がない。
ユリのハイヒールが甲高く鳴っているだけに、その無音さはさながら影だ。
暗殺者はまるで幽鬼のようにユリの背後に忍び寄る。
淡雪と優季は、その様子を絶望の目で眺める事しか許されない。先程の一撃で手足が痺れて、二人とも動けない。倒れ込んで音を立てる事さえ無理であった。意識があるというだけで完璧に無力化されていた。
淡雪は優季に縋るような目を向ける。優季ならば――【ナノマシン・ブーステッド】と定義される一種の超人である彼女ならば――と思ったが、優季も動きを封じられている。躰の損傷は融合しているナノマシン集合体の働きによって復元・再生可能な彼女であるが、生体機能の弱点を突かれると、どうやら常人と同じ反応を示すようだ。
暗殺者の手には極細の針。
針先が、ユリの首筋へと伸びていく。ユリは気が付いていない。
淡雪と優季は目を瞑った。
ドゴォ!! という撃音が、ユリを死へと誘う静寂を破壊した。
その音に再び目を開ける淡雪と優季。
ユリの脇下から、すらりとした足が伸びている。
それは突き蹴りの姿勢のまま、軸足で一本立ちしている護衛役の女性の右足である。
襲撃されたと理解したユリ、マネージャー、そして世話係は固まっていた。
サイドキックで弾き返された暗殺者は、すでに体勢を立て直している。
「ノーダメージか。手加減しなかったのに。その服、どうやら【黒服】の新型のようね」
護衛の台詞を聞き、淡雪は心臓が跳ね上がる。
声音こそ違っているけれど、このイントネーションは間違いなく……ッ!!
護衛はゆっくりと右足を下ろし、ユリを庇う立ち位置を確保する。
暗殺者はニヤリと笑い、言った。
「ニホンの常識離れといえるシビアな警備態勢だけではなく、この私に気が付くとは、噂以上の手練れようね。――オルタナティヴ」
抑揚と特徴を殺した平坦な口調である。
オルタナティヴ、という名に淡雪の視線が、大きめのサングラスで覆われている護衛役の顔に釘付けになった。ああ、確かにこの貌の造形は。どうして気が付かなかったのか。
できれば、その目を。特徴的な目を直に確認したい。
あの事件から、気になっていた。
ずっと会いたかった。逢いたかった。
声を出したい。
叫んで、呼び掛けたいのに――
潤む淡雪の視線に気が付いたのか、オルタナティヴはサングラスを外し、懐にしまった。
中性的で美しい顔が露わになる。さらり、と長めの前髪が怜悧な双眸にかかった。
ルビーのように紅い瞳。
彼女は一瞬だけ淡雪を見やり、そして視界を襲撃者へとロックオンした。
切れ長の瞳を冷淡に細め、黒髪をポニーテールにまとめている黒衣装の少女が告げる。
「それじゃあ早速、ビジネスを始めるとしましょうか」
両拳を肩口まで掲げ、ファイティングポーズをとった。
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…
本気の一撃――すなわち必殺を期した蹴りであった。
オルタナティヴは暗殺者の手がユリに迫る寸前まで、あえて気が付かないふりをし、一気に静から動へと転じた。虚を突いて、右の足刀部を槍のごとく電光石火で放った。
だが、余裕をもって右前腕部でガードされた。
たとえガードされても骨ごと腕を破壊し尽くすはずのキックであったが、手応えならぬ足応えからして、ほぼノーダメージに近いだろう。
(どうやら新型の【黒服】で武装しているようね)
正式商品名は《リバーシブル・マジック・スーツ》であるが、ほとんどの者はシンプルに【黒服】としか呼ばない。特に、軍事関係者ではなく裏社会関係者は。
見た目は、灰色を基調としている事務員用のシンプルなデザインの女子制服だ。名称通り『黒い衣服』ではない。彼女が暗殺者の衣服を【黒服】の新型と判断したのは、事務員用制服の外観にカスタマイズされている既存のタイプではないからだ。一回だけの使用を前提に【黒服】をカスタムして携帯してくるとは、いくらなんでも考え難い。従って、事務員用制服の下に着込める超薄型となり、それは従来にないタイプ――新型としか考えられない。
ちなみに【黒服】とは、服の裏地にプロテクターや強化外層骨格(ムーバルフレーム)、補助人工筋肉(ハイパワーマッスル)等の仕掛けが施されている戦闘装束の総称である。
黒の背広姿がスタンダードなタイプであり、また【ブラック・メンズ】という裏社会の【ソーサラー】集団が、好んでこの戦闘装束を使用している点からも【黒服】と呼ばれる。
「――横田さん。開演が十分ほど遅れるとスタッフに連絡を」
オルタナティヴはマネージャーに告げた。
横田宏忠は背広の内ポケットから、仕事用のスマートフォンを取り出す。
「通信は無駄よ。電話用のジャミングが局地的に入っているはず。だから走って行って」
この通路は関係者にしか入れない場所。
相手はそれを逆手にとってきた。一般客が立ち入れない空間ならば、通信障害を起こしても短時間ならば怪しまれない。まして携帯機器は一時預かりのライヴ会場として使用中だ。
「だけどユリを置いては……ッ!!」
「彼女はアタシの傍が一番安全よ。いい? ステージに行って開始を十分伸ばしなさい。同時に警備の警戒レヴェルも最大限まで引き上げて。十分はその為にも使いなさい」
「君一人に任せて大丈夫なのか!?」
「侵入と襲撃を許した時点で、他の戦力は当てにしていないわ。早くッ!!」
最後の一喝で、横田は弾かれたように走り出した。
二人目の侵入者の可能性が極めて低いのは分かっている。もう一名いるのならば、同時に襲ってこない道理はないからだ。あるいは居たとしても退路の確保に回るだろう。よって横田を一人で向かわせても大丈夫、とオルタナティヴは判断した。
暗殺者が言う。
「流石にいい状況判断能力をしている。しかし十分は少々見積もり過ぎよ」
「ええ。実際は五分、いや三分でケリが着くでしょうね」
このケースにおいて、長時間の戦闘はありえない。
暗殺者は短期間でオルタナティヴを斃せず、ユリを殺せないのならば、次回の機会の為にも迅速に撤収するからだ。
会話の必要はない。
呼吸を読んで両者はほぼ同時に動く。ダイナミックに、一刀足にステップインした。
ごぉォうぅ、と空気が拳によって切り裂かれる。
先制の拳は――暗殺者であった。
左ジャブをヘッドスリップでやり過ごし、刹那の遅れでオルタナティヴも左ジャブを打つ。
ヒュゴウっ、と空気を切り裂く音が、追って重なった。
(迅い――ッ!!)
先手を取れなかった。相手の踏み込みと拳撃の速度に、オルタナティヴは舌を巻く。
彼女の身体能力は『とある事情』によって超人化している。
魔術的な身体機能の上乗せや、サイバネティクス強化やドーピングといった外的要因・後天的手段には一切頼らずに、ナチュラルに常人を遙かに凌ぐ身体機能を得ている。
そんなオルタナティヴに劣らない速度と力感を、暗殺者は披露している。
左拳での差し合いは全くの互角だ。
クリーンヒットどころか、双方、擦らせもしない。
足を止めたミドルレンジでの制空権争いである。
全ての格闘技術の中で、最も速度があり、最もモーションが小さいのが左ジャブだ。
ゆえに技術とセンスが凝縮される技ともいえる。
そして最速の技ゆえに小細工が入り込む余地はない。ナイフ等を握れば、余計な筋力の負荷により速度とキレが落ちる。暗器と呼ばれる小型隠し武器を拳に仕込む余裕すらない。極限のハンドスピードを出す為には、無手である必要がある。
純粋に互いの最速を競い合う。
蹴りやタックルといった他の選択肢、ましてや小細工など許さない領域だ。
左拳が超速で放たれ、そして瞬時に元の位置へと引かれる。
最小限の頭部のアクションで無駄なく躱して、躱した瞬間に相手へ拳を返す。それを互いに超速度と超反応で繰り返している。コンマ数秒でターンを譲り合う。
攻防の最中、オルタナティヴは暗殺者の拳を査定する。
単にスピードがあるというだけではなく、充分なパワーが窺える風切り音である。
多種多様に軌道とタイミングに変化をつけたリードジャブは、牽制のみに留まらず、頭部の急所を捉えれば一発で意識を根こそぎ刈り取れるだけの破壊力だ。
力任せではなく、研鑽された技術と経験に裏打ちされたタイミングとスピード、コントロールによって、的確かつ精緻に急所を狙ってきている。
(なるほど……強敵ね)
魔術を起動している気配は感じ取れない。つまり、それだけ新型【黒服】と相手の身体能力が優れているという証左である。あるいはドーピングやサイバネティクス強化にまで手を染めているのかもしれない。
そして、本物のジャブとはモーションを削ぎきった手打ち――『腕の屈伸動作』ではない。むしろ対極といえる。
目線、肩、肘、ステップと様々なフェイントと変化を織り込む必要がある全身運動だ。
一言でジャブとはいっても、互いに複数パターンの型をもっており、フェイントと駆け引きを繰り返す高度な攻防は、さながら十数手先を読み合う将棋指しの真剣勝負の様である。
左拳の差し合いで、もうじき三十秒が経過――
ギラリ、と黒髪少女の紅い双眸が凶悪な光を帯びた。
――だいたい学習し終えたわ。
(頃合いだから、引き出しを一つ開けましょうか)
オルタナティヴは身体能力のギアをMAXまで引き上げた。
眼前まで肉薄する暗殺者の左拳。
脳内麻薬の分泌により感覚が研ぎ澄まされているオルタナティヴには、止まって視える。
意図して相手の拳を引きつける。
これまでのパターンだと、すでにヘッドスリップの初動に入っている。しかし頭部は動かさない。代わりに右拳でアウトサイド・パーリング(=内から外へ払う)した。
大胆なパターンの変化だけではなく、反応速度のギアアップに相手は対応が遅れる。
払った動作をそのまま右拳のテイクバックに繋げる――というフェイントを刹那、アクセントに加えてから、オルタナティヴの左拳が閃光のよう打ち込まれた。
綺麗な直線軌道を描く左ストレート。
ズガッ!!
初めて響く打撃音。オープニングヒットだ。浅くではあるが、初めて相手の顔面を捉えた。
辛うじて打点をずらす事ができた暗殺者であったが、防御体勢が完全に崩れる。
次いで、オルタナティヴの右ストレートが唸る。
繋ぎにおけるタイムラグがゼロに近い、美しいフォームのワンツー・ストレートだ。
しかし、その一撃を暗殺者は紙一重で躱す。ぱぁァン! ヘッドスリップしながら、右手で払った。
オルタナティヴは弾かれた右拳を引き戻す。
彼女の左拳が「ピクリ」と反応したのを察知した暗殺者は、それよりも迅く、左ジャブを突き刺しにいく。その左拳が、オルタナティヴの顔を素通りした。
正確には、ヘッドスリップした残像をミスブローしている。オルタナティヴの左拳の反応がフェイントだと暗殺者が気が付いた時には――遅かった。
本命は右。ダブルでもってきた右ストレートが、カウンターとなり暗殺者を襲う。
右肩上に暗殺者の左腕を通過させて踏み込む。ややアウトサイドから弧を描いた右ストレートが、左腕と交わり十字架を演出した。クロスのタイミング。狙ってのソレはこう呼ばれる。
ライトクロス――と。
ガゴッン!!
クリーンヒットした。しかし暗殺者も咄嗟に首を捻って、辛うじて直撃だけは免れた。スリッピング・アウェイと呼ばれる緊急避難的なディフェンスだ。
体重が乗りフォロースルーの利いた一撃に、暗殺者の両踵が浮き上がる。
返しの左フックか左アッパーを想定し、暗殺者は両手のガードを変化させた。
だがオルタナティヴは返しの左を放たずに、蹴り足であった右足の慣性を解放して、そのまま前に踏み込んで軸足へと移行する。振り切った右腕を全力で脇へと引き絞る。
オーソドックスからサウスポーへとスタンスをスイッチして、後方に置かれた蹴り足である左足が、そのまま蹴り――つまりキックとして弧を描いた。
教科書通りの左ミドルキックである。
ぐぅギャァっ!!
左パンチを予測した相手の裏をかいて、オルタナティヴの左臑が、敵の右脇腹を薙いだ。
拳とは異なる打撃音。肋骨をヘシ折る感触。
「がハッ!」
微かに喀血し、暗殺者は通路の壁に叩きつけられた。
内臓破裂とまではいかなくとも、それなりに臓器にダメージを与えられたようである。
しかし暗殺者はダウンしない。倒れるどころか、なお戦闘態勢を維持している。
オルタナティヴのパフォーマンスに、淡雪と優季が目を見張った。
「やはり頭を打ち抜かないと一撃KOは難しいわね」
「強い……。事前情報よりも格段に上だ」
「その情報は古過ぎるわ。過去のデータは、今のアタシには当て嵌まらない」
オルタナティヴは実感する。ようやく身体感覚の違和感が解消されて、馴染んできたと。
違和感の原因は超人化ではない。
彼女は元の躯から直接超人化したのではなかった。身長・体重・骨格・筋肉量と付き方、とあらゆる要素において劇的な変化を遂げていた。
車両に例えるのならば、国産スポーツカーからF1マシンへと性能が向上しても、運転感覚がまるで違っており、ドライバーとしてマシン性能を引き出せていなかったのである。
しかし――その差異における身体操作のズレを、彼女は克服した。
睫毛の長い双眸を眇め、少女は言う。
「今のアタシならば、堂桜統護と真正面から打ち合っても無様は晒さない。乱条業司朗と格闘戦をしても苦戦などしない」
もう以前のように身体操作に苦慮しながら、性能をセーブする事はないのだ。
戦闘開始から――四十五秒。
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