第二章 シンパシー 1 ―本音―
スポンサーリンク
1
いよいよ開演が迫っていた。
通しで行った最後のリハーサルを終えたユリは、なおも練習を繰り返しているバックバンドや、進行状況のチェックに余念がない演出スタッフをステージに残し、控え室にいる。
衣装の確認とメイクは済んでいる。スタイリストはお役御免だ。
目を閉じて、鏡面台の前に座っていた。
休息も立派な仕事であり、こうして徐々に集中力とテンションを高めていく。
幾度となく繰り返してきた、本番前の大切な儀式でもある――が。
「……ふぅ」
重々しいため息をつくユリ。
これで八度目だ。広い室内の隅でユリを眺めている漆黒のビジネススーツ姿の少女は、ユリが明らかに平常ではないと勘づいている。
ライブ本番を目前に、昂揚しているのではない。
まるでステージ初体験を迎えて緊張に固まる素人のようだ。
いや、緊張というよりも逃亡したがっている様に見えた。
ニホン武道館という大きなハコで、万来のファンとマスコミを前に単独ステージを行えるという事は、ニホンのアーティストにとってある種の夢であり到達点であるはずだ。この舞台に立つことが叶わず、ひっそりと去る者のなんと多いことか――
ユリの表情は固い。
本来ならばライヴの主役である榊乃原ユリ一人であるはずの八名定員のドレッシング・ルームに同室している、『何でも屋』――オルタナティヴが声を掛けた。
「お邪魔のようだから、少し席を外しましょうか?」
このままでは、ライヴが失敗しかねない。
「同意なしに一人にしないって契約でしょう」
ユリは批難げな視線を、豊かな黒髪をポニーテールにしている護衛に向ける。
ストーカーから命を狙われているユリにとって、凄腕の【ソーサラー】と評判にして、同性のオルタナティヴの存在が、決断しかねていたニホン凱旋の決定打になったのだ。
壁から背中を離し、組んでいた両腕を解くと、オルタナティヴは語気を強めて言い重ねる。
「でもアタシがいると、精神集中の邪魔みたいじゃない?」
「貴女がいなくても関係ないわ。……このザマなのは」
苦み走った口調。ユリはニヒルに顔を歪めた。
露骨に弱みを見せられ、オルタナティヴは困惑する。
元々虚勢を張る傾向が顕著であったユリだが、ここまで本性が脆くて繊細だったとは。
「確かに、何度もライヴを経験しているプロとはとても信じられない様子ね」
「そりゃぁ……ね」
理由を訊かれたわけでもないのに、ユリは訥々と独白し始める。
ライヴ成功の為に聞くのも仕事――と判断したオルタナティヴは黙して耳を傾けた。
「――恐いのよ。このニホンで歌うのが」
微かに噛み合わない歯の根。双眸には明白な怯えの色。
独白は本心の吐露から幕を開けた。
榊乃原ユリは芸名であり、本名を大宮和子という。十八歳という年齢も公称だ。ファンならば公然の秘密であるが、本当は二十一歳で三つさばを読んでいる。
デビューは母国であった。一流プロダクションが開催した一般公募オーディションで特別賞を獲り、歌手としてのチャンスを掴んだ。
最初は本格的シンガーソングライターとして勝負した。
詞と唄。共に自信があり、専門家筋からの評価も上々。
しかし……売れなかった。
高く評価された実力は、販売実績には直結せず、レコード会社から契約を打ち切られる。
所属プロダクションを移籍して『榊乃原ユリ』と芸名を改め、再デューする事となる。
ニホンを離れ、親日国でニホン語が公用語並に通用する――ファン王国にて。
徹底してニホン時代の自分を捨てて、そして変えた。
新しい方向性の歌の模索だけではなく、『ゆりにゃん』キャラを作りだした。
最初こそ上手くはいかなかったが――
「ある時を境に、それこそ突然、爆発的に成功し始めたのよ」
自分でも理由は分からない、とユリは顔を翳らせた。
オルタナティヴは沈黙を破り、口を開く。
「成功例というか、ブレイクスルーって大抵そうじゃないかしら」
「他人事ならそう思えるでしょうね。けれど自分の身に起こるとあまりに現実離れしていて」
「喜ばしい事じゃない? やっと才能が開花して、認められたのよ」
答えず、ユリは強く唇を結んだ。
その様子に、さてどうしたものか……とオルタナティヴは思案する。
契約内容は単純に彼女の護衛というだけではなく、心のケアも含まれていた。心のケア云々もそうだが、凱旋ライヴ初日で失敗してしまうと、今後のスケジュールに影響しかねない。
もうすぐ――ライヴが始まる。
後数分で、ドアがノックされ呼び声が掛かる。
それまでには、どうにかして――
コンコン、とドアが鳴った。
もう来た。オルタナティヴはドアとユリの間で、視線を交互させる。
メンタルの準備ができていないユリは、あろう事か顔面から血の気が引いていた。
(引き延ばせるか?)
開始時刻から考えると、まだ猶予はあるはずである。
オルタナティヴはドアノブを掴み、外から回せないように握力を込める。
「ミーティングで言い忘れていたが少し時間いいか?」
マネージャーの声だ。
返事をしあぐねた一瞬の後に、更にマネージャーの言葉が続く。
「五分で済ませる。本番前に悪いが、どうしても挨拶して欲しいVIPが来場していてね」
お偉いさんの接待か。オルタナティヴは眉根を寄せた。
本番直前だ。通常ならば、プロダクションやレコード会社の責任者、中継・配信するTV局の局長クラスなどが接待に当たり、ユリを保護するはずである。このタイミングでユリに面通しさせろ、となると芸能界のVIP程度ではなく、政財界の大物クラスに違いない。
「急遽、だったのね?」
「チケットは配っていたのだが、まさか本当に来場するとは……。正直いってコンサートといってもクラシック等じゃないと来ないだろうと思っていた。すまない計算外だった」
「分かったわ」
ドアノブから手を放す。
オルタナティヴは忌々しげに下唇を噛んで、大きめのサングラスをかけた。
…
開演が近づき、淡雪と優季はウィンドーショッピングを切り上げ、武道館に到着した。
人という人で溢れかえっている。
若年層を中心に『ゆりにゃんハッピー』とロゴされた公式法被を着ているファンが、それぞれの陣地で集団を形成して、応援コールの練習をしている。
長蛇の列ができあがっていた。数名の警備員がメガホン片手に整列活動を行っている。
会場前の広場や通路でさえ、大量の露店で『ゆりにゃんグッズ』が売られていた。
待つこと二十分。
ようやくゲートに到達した二人は、入場口で切符係にチケットを差し出す。
偽造・コピー防止も兼ねた薄型識別チップが埋め込まれているチケットを、係員は判定機器のスリットに通過させた。異常があれば、ブザー音と共にゲートが自動で閉まる。
また通過するゲートは【魔導機術】による身体検査機能を備えており、録音・録画機能を備えた機器や、刃物・薬物・爆発物といった危険物の携帯を検知できるのだ。
チケットに異常はなかった。
しかし係員は二人をゲート内へと通さず、イヤホンマイクの音声に注意する。
「……申し訳ありません、お客様方。少々お待ち下さい」
丁重にそう断られ、列の横で待機させられた。
入場拒否されて怪訝な顔になる優季。
対して、若干表情を曇らせながらも、淡雪は理解している様子であった。
五分ほど経った頃。
背広姿の男達――下は三十代から上は七十代までの合計八名が、駆け足でやって来た。
よほど急いだのか、彼等の中の年配者は大量の汗をかき、息を切らしている。
お待たせして申し訳ありません、と口を揃えて前置きしてから、全員深々と頭を下げる。
「ようこそお越し頂きました! 淡雪お嬢様っ! そして優季お嬢様っ!」
優季は目を丸くする。
周囲の耳目が一斉に集まった。
淡雪と優季を直々に出迎えに来たのは、TV局プロデューサー、イベント責任者や会場オーナー等をはじめとした、この武道館ライヴ関係者のお偉いさん方であった。
注記)なお、このページ内に記載されているテキストや画像を、複製および無断転載する事を禁止させて頂きます。紹介記事やレビュー等における引用のみ許可です。
本作品は、暴力・虐め・性犯罪・殺人・不正行為・不義不貞・未成年の喫煙と飲酒といった反社会的行為、および非人道的、非倫理思想を推奨するものではありません。また、本作品に登場する人物・団体などは現実とは無関係のフィクションです。